2014年05月05日

「共通言語」ではなく「言語共通」?


社会保障制度改革国民会議報告書(2013.8.6)を眺めると、日本の人口構造を背景にかかる制度の逼迫感は尋常ではない。これは、(現役世代としてはとても申し訳ない話だが)後世に遺してしまう大きな課題のようだ。

人口減少が不可避であるものとして認識される中、高齢者とそれを支える世代との比率を念頭に現実的な状況を伝えつつ、支える世代側の生活も希望のあるものとして提案しなければならない報告書を作成するというミッションを(おそらく)与えられた、作成メンバーの苦悩が行間から滲み出る。

報告書では、地方行政の主導に大きな期待を寄せながら、地域特性を踏まえた「地域診断」と、それを根拠とした(経済的に)効率の良い施策の展開を色々な表現で伝えようとしているようにも思える。

そうしたときに叫ばれるのが「連携」とか「ネットワーク」というフレーズであるが、その文脈でしばしば用いられる「共通言語」という言葉には注意が必要だ。さて「共通言語」とは何か。その本質に接近するためには「言語」の意味を吟味しておく必要があろう。

たとえば自分以外の誰かが駆使する言葉の意味が、単語レベルで分かるということが「共通言語」の目指すところではない。このように認識していうと、「福祉職が医療職の使う専門用語を理解しなければならない」というような枝葉末節的なトレーニングが展開されることになる。もちろん、理解していないよりしていた方がよいのであるが、本質はここではない。本質は、言葉の意味が分かった後に控えている。
 
地域のネットワーク構築や連携で、特に専門職がまず共有していかなければならないのは、誰かが発した単語の意味ではなく、その単語によって編まれていく「判断」や「解釈」や「推論」である。つまりは「思考」である。そして、議論しなければならないのはその正誤、真偽、確実・不確実性である。
したがって、「共通言語」の「言語」とは、専門用語や単語の意味ではなく(もちろんそれを理解したうえで)、それらによって組み立てられた「思考」を検証するための具体的な方法やフレームを意味する。
思い切って言い換えると(日本語表現としては不適切だが)、「共通言語」ではなく「言語共通」としておいた方が本質を見誤らないのかもしれない。
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2013年10月18日

「言葉を探しに来たな」

「言葉を探しに来たな」

50歳を前に叩いた大学院の門。
ある教授にそう言われた。

その時から「言葉」というものを意識し始めた(なんと遅い気づきか!)。

そして、「言葉を探すとはなんだろう」という新しい問いを立てることになった。
語彙力をつけ、難しい言葉の意味が解り、言語化する能力も高めること‥?

どうも違う。
そんなことではない気がする。


最近、「言語化する」という表現をしたりされたりすると変な違和感の残滓を感じる。
結論を急がせる/急がされるような、可能性を閉ざす/閉ざされるような、あと半分残っている大好物を食べ残すような、そんな違和感である。

では、残りの半分とはなんだろう?



「言語化する」つまり「言葉にする」ためには、思いなり考えなりを取捨選択・整理・まとめたりして結構なエネルギーが必要となる(今、私はそれをやっているのだ)。
しかし、日常生活ではそんなエネルギーは、そうそう使わない。なんとなく言葉を使っていても困ることは少ない。日常生活では非言語が補って「言葉にしてくれている」からだろう。「言葉にする」のではなく「言葉になる」のである。

コミュニケーションを手伝い社会的な繋がりを支援する仕組み(ソーシャルネットワーキングサービスを直訳すればこうなりますか?)=SNSの多くでは「言葉にする」ことを非言語が補ってはくれない。
つまり「言葉になる」状況は期待できない。言い換えればSNSの中の私たちは半分しか生きていないのだ。

生活の中では「言葉にする」場面と、「言葉になる」場面とがあり、その両方で生かされている。
「SNSは、どうも苦手」という人達は、時代遅れなのではなく「半分では嫌だ」という意思表示をしているのではないだろうか。



言葉には「言葉にする」と「言葉になる」との活用形がある。

私はそのことを探していたのだろうか。
つまり、あの教授の「言葉を探しに来たな」は、「言葉の正体を探しに来たな」だったのかもしれない。

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2012年11月14日

介護保険法の中の「自立」

(目的)
第一条  この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。
(アンダーラインは吉島)

ご存じ、介護保険法 第一条 です。
最近、第二条、第四条の遵守が強調されていますが、第一条はどうなのでしょう?
僕の読み方、解釈が違うのでしょうか?
僕には次のように読みたいのですがダメでしょうか?

「(略)定められた原因により、要介護状態となった人が、介護・訓練・その他を要するようになりました。
その場合、そうなった人が尊厳を保持できるよう、そうなった人の能力に応じて自立した生活が営めるよう、必要な...(略)」

ということはですよ...「要介護状態になった人も自立はできる」と読めませんかね〜?

介護保険制度は、「要介護状態になった人でも(その状態のままで)自立可能である」という考えを前提として創られている...そう考えてきたのですが、違うんですかねぇ〜?

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2011年07月23日

12時間モノ

前回、使う言語(例えば、日本語)の影響について書いた。
→ http://toyoro.seesaa.net/article/215734018.html

もう少し、日常に近づけて考えてみたい。

いつから日本語を使い始めたか? そんなことは憶えていない。
親が、口伝えでコトバを教え始めてからこれまで、
どのくらいのコトバを覚えたのだろう。

昔から知っているコトバも、どこかで誰かに(書物も含めて)
教わったものである。
にもかかわらず、自分が考えたコトバのように使ってしまう。
まぁ、教えた人が所有権を主張するなんて(日常語に関しては)
考えにくいので、自分の考えたコトバのように使っても悪くはない。

しかし、落とし穴があることだけは知っておく必要がある。

慣用句やよく使う言い回しは、その本来の意味をなるべく正確に知り、
その上で文脈づくりをしていかなければならない。

うろ覚えのまま、「えいっ!」と使ってしまうと、
的外れではないにしても、文脈が乱れ、ボンヤリしてしまう。

それは、使うコトバの近くに漂う、「概ねそうだろう」とか、
「凡そこれだろう」といった意味合いをも混入させることになる。
「当らずと雖も、遠からず」が紛れ込み、堆積し、
それらで構成された「なんとなくそれっぽい」文脈ができあがるのである。

「それっぽい」から、指摘や批判は受けにくい。


なぜコトバの近くには、そのような有象無象が漂ってしまうのか。
それは、コトバが常に「生活」と共に在り、「生活」の多様性に影響され、
多義的に使われることになるからだろう。
そして、徐々にその多義性は定着し、守備範囲の広いコトバになっていく。


誰しも、「言った(つもり)」vs「聞いていない」というトラブルの
経験があろう。そのような実害を生むこともある。


専門職が使う専門用語もコトバである以上、
もちろん同じような性質を持つ。
「アセスメント」、「ニーズ」などという誰でも知っているコトバが、
よく分からないコトバに変質していまう。

専門職の場合、特に仕事の根幹にかかわるコトバが、
よくわからないコトバになってしまうと、
アイデンティティが揺らいでしまう。
「自分は専門家なのだ!」という自己評価が、
(良し悪しは別として)専門職を元気にする。

大切なコトバが、よく分からないコトバに変質し、
からだに纏わりつき始めると、精神力を奪われてしまう。

時々、流れに逆らってみたり、歩を止めてみたりしながら、
自分のコトバを吟味していきたい。


論文の指導をしてくださった恩師は、
「うん、いいでしょう。これで暫く寝かせてみましょう!」
とよくおっしゃっていた。

もちろん、文章やコトバは、寝かせただけでワインのように
上質なものになっていくはずはない。

寝かせている間に、書き手の見方や意識が変化し、
文脈の揺らぎなどに気付くのである。

ちなみに、この文章は半日ほど寝かせた「12時間モノ」である。

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2011年07月20日

人間に主体性はない?

今まで、やったことはないのであるが、
どうにもこうにも考えが纏まらないので、思い切って文章にし、ブログにアップしてみる。

お題は「人間の主体性」である。


人間は、自分のことを自分で決める。

また、相談援助職は、どんな状況下にあってもそれができると信じ、支援にあたる。
いわゆる「自己決定」であるが、バイスティックの原則を学ぶ時に叩き込まれる。

そして、「自己決定」と同時に扱われるのが「主体性」である。
人間の主体性が自己決定の背景にあり、「自己決定」できることが「主体的である」ということにもなる。

介護支援専門員実務研修テキスト(四訂)では、介護保険法第二条の解説に、制度の基本理念のひとつとして「自立支援」があることを取り上げ、
「主体的な決定」「主体性の尊重」等として、「主体性」が「自立支援」と不可分であることを強調している。

これまで疑ったことがなかったこの「主体性」なのであるが、ここにきて困ったことが生じた。
それは、「人間には主体性がない」というものの考え方に出会ったからである。

レヴィ・ストロースという人は、社会や言語の深層構造が人間を規定するという見方を示し、
ミッシェル・フーコーという人は、各時代のものの見方の枠が人間を規定するという。
「主体性」は幻想とさえいう。

つまり、「主体性」なる確固たるものが存在していて、それが「自己決定」をさせるのではなく、
社会や母国語や時代の見方が決めさせているというものである。

日本語で思索し、日本語で覚悟を決め、日本語で意思を伝える限りにおいて、
日本語の深層にある構造の影響から逃れることはできないということらしい。

ここらあたりまでは、しぶしぶ了解してみるが、困るのはその後である。

このものの見方を、どのように現場に溶かし込んでいくかということである。

僕は、「自分の言葉で語ろう」と言いながら行脚している。
また、自分もそうしてきたつもりである。 
この見方を現場に届けるためには、「自分の言葉」が必要になる。が、今のところ見つかっていない。
理解が浅いということもあろうが、言葉探しを始めなければならない。

冒頭で述べたが、自分の考えを纏めるためのブログなので、読んでくださる方には申し訳ないと思っている。
言葉が見つかれば、またこのブログで語ってみたい。

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2010年10月07日

「プライド」というNGワード

事例検討会をすると、「プライドが高い」という言葉がよく登場する。
「この方は、プライドが高くて・・・」とか、
「プライドが高すぎる方には、どのように関わればいいのでしょうか?」
などである。

アローチャートで分析する際も、
安易に「プライド」という言葉で括ろうとする。

このような場合、私は次のように言うことにしている。
「僕は今までプライドの低い人に出会ったことがない。
どんな人でもプライドを持って生きている」と。

勢い、私の事例検討会では、「プライド」という言葉は、
(分析をおこなう場合には)NGワードとなってしまった。

アセスメントをする際、問題にしなければならないのは、
「プライド」の中身である。

何を <誇り> とし、それは彼/彼女の <生> とどのように繋がっているのか。
そのことを紐解いていくのがアセスメントであろう。

ケアマネは、もっと言葉を吟味する習慣を身につけなければならない。
初めは深読みするくらいでちょうどいい。

よく使っている言葉に依存し、コンビニエンスに使ってしまうと、
よく使ってはいるが、よく分からない言葉になってしまう。

よく分からない言葉が増えれば増えるほど、
それらはアセスメントを浅いものにしてしまうのである。

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2010年08月22日

「読む」をヒントにして

民主党代表選のニュースが多くなってきた。

議員や評論家が「票が読めない」などとしゃべっている。

これは、「他人の心が読めない」ということである。
だから、料亭に集まったり、勉強会などをして確認作業をするのであろう。

「読む」という言葉には多くの意味がある。

「本を読む、文章を読む」と使う場合も、
単に声に出してとなえるという以外に、
「理解する」「判断する」という意味が加わることもある。

また、「推測する」「察知する」という意味でつかわれる場合もある。
「票を読む」や「空気を読む」などは、このあたりなのか。

要するに、見えないものを見ようとする営為である。

飛行機の機体や自動車の車体に
小さなラベルのようなものをたくさん貼り付け、
空気の流れを目に見えるものとして確かめるシーンは、
誰しも一度は見たことがあるのではないだろうか。

抽象的な概念を量的に分析する場合、観察可能な下位概念を設定することも
見えないものを見ようとする工夫だろう。

「見えないものをなんとか見たい」という願いは、
「理解できないことをなんとか理解したい」という願いに他ならない。
そのような強い情熱が人間を進歩させる。

ケアマネや対人援助職と呼ばれる方々にも
この強い情熱を持って欲しいと願っている。

利用者・家族のもつ主観的世界の深みに
強く誠実な関心を寄せて欲しい。
そこに軸足を置くアセスメントをして欲しい。


自分が「利用者」と呼ばれるようになったら、
きっとそう思うはずである。

キーワード : ケアマネ 介護福祉士 ソーシャルワーカー アセスメント


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2010年08月14日

体験と経験の違い

本を読んでいて、ハッとし、
慌てて辞書を引く体たらくです。

「体験」と「経験」の違いなんて、
今まで吟味したことがなく、恥ずかしい限りです。

大辞林によれば、次のように書かれてあります。
「体験」は、自分自身の身をもって実際に行う意。
「経験」は、自分で実際に見たり聞いたりして
知識・技術などとして身につける意。


つまり、体験から得たモノが経験ということになるのでしょうか。


体験は、場合によっては、体験した本人以外からの情報でも確認可能でしょう。

しかし、経験は体験したことに本人の意味づけが加わりますので、
本人にしか分からない情報ということになるでしょう。

では、ケアマネをはじめとする対人援助職は、何に耳を傾け、
何を知ろうとすればよいのでしょうか。

それは、体験と経験に、
「それを本人がどう語るのか」ということを加えて
その三者の関係性だと思います。

例えば、Aさんがケアマネの薦めでデイサービスの体験をしたとします。

【体験】 △月△日、デイサービスの体験をした。入浴もした。
【経験】 嫌だったがケアマネさんが薦めるので、デイサービスの体験とやらに行った。入浴もしたが、まあ悪くはない。
【語り】 「楽しそうだから行ってみたけど、私は二度と行きたくありません。」

この【体験】と【経験】と【語り】の関係性に着目することが、
本人の主観的世界に近づこうとする営為
なのです。

いずれか一つの情報だけではアセスメントは出来ないということです。

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posted by となりのトヨロ at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉の吟味から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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