2013年10月18日

「言葉を探しに来たな」

「言葉を探しに来たな」

50歳を前に叩いた大学院の門。
ある教授にそう言われた。

その時から「言葉」というものを意識し始めた(なんと遅い気づきか!)。

そして、「言葉を探すとはなんだろう」という新しい問いを立てることになった。
語彙力をつけ、難しい言葉の意味が解り、言語化する能力も高めること‥?

どうも違う。
そんなことではない気がする。


最近、「言語化する」という表現をしたりされたりすると変な違和感の残滓を感じる。
結論を急がせる/急がされるような、可能性を閉ざす/閉ざされるような、あと半分残っている大好物を食べ残すような、そんな違和感である。

では、残りの半分とはなんだろう?



「言語化する」つまり「言葉にする」ためには、思いなり考えなりを取捨選択・整理・まとめたりして結構なエネルギーが必要となる(今、私はそれをやっているのだ)。
しかし、日常生活ではそんなエネルギーは、そうそう使わない。なんとなく言葉を使っていても困ることは少ない。日常生活では非言語が補って「言葉にしてくれている」からだろう。「言葉にする」のではなく「言葉になる」のである。

コミュニケーションを手伝い社会的な繋がりを支援する仕組み(ソーシャルネットワーキングサービスを直訳すればこうなりますか?)=SNSの多くでは「言葉にする」ことを非言語が補ってはくれない。
つまり「言葉になる」状況は期待できない。言い換えればSNSの中の私たちは半分しか生きていないのだ。

生活の中では「言葉にする」場面と、「言葉になる」場面とがあり、その両方で生かされている。
「SNSは、どうも苦手」という人達は、時代遅れなのではなく「半分では嫌だ」という意思表示をしているのではないだろうか。



言葉には「言葉にする」と「言葉になる」との活用形がある。

私はそのことを探していたのだろうか。
つまり、あの教授の「言葉を探しに来たな」は、「言葉の正体を探しに来たな」だったのかもしれない。

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posted by となりのトヨロ at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉の吟味から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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